感謝感激☆感動日記

パン屋さんはパンを売る。では感動屋さんは感動を売る?

どうして私は感動ばかりしているのか

私は感動しやすい「体質」を持っています。いいのか悪いのかはわかりません。多分ひと一倍「ガッカリ」もしているのでしょうし…

ところで、感動ってどうして発生するのでしょうか。感動はセリフにしてみると「素晴らしい」「美しい」「かわいい」「楽しい」「切ない」などということになるかと思いますが、簡単に言えばプラスの方向に心が激しく動く状態がそれだと解釈しています。

 

私の場合、常に感情が「激しく動く」ようになっていて、それは感情の振れ幅が大きいというよりも、感情が湧きおこってくる「器」が小さいのでどうしても大きく感じてしまうのではないかと思っています。平均的なひとがゼロを中心としてプラス10からマイナス10のハカリを持っているとすると、私のハカリはプラス3からマイナス3までという目盛りかもしれないとさえ感じています。つまり3倍以上、激しく感じるということです。これが、イコール感受性が強いという意味かはわかりません。いつも激しく感じていると体が疲れてしまうので、鈍感な部分もあります。大勢の人には会いたくない気持ちもあります。また、なるべく興味の対象を広げないようにしているところもあるかもしれません。

 

私はそういう点で「感じやすい」のですが、もう一度「感動」のメカニズムに話を戻すと、そこには「ギャップ」という概念が関わっているように考えています。ギャップというのは、「意外性」です。思っていたよりもよかった、想像していたものといい意味で違っていた、という感覚です。よく「ギャップのある人がモテる」という記述を目にすることがありますが、要するにそういう人は相手を感動させているわけです。「へえ、こんな面があるんだ、こんな素敵なところを持っているんだ」と。そう考えると、モテるためにはある程度最初のうちは好印象じゃなくていいとも思うのですが、それだと「二度目」の可能性が低くなるので、なかなか難しいところですよね。

 

私が書いている、映画やマンガや小説や食べ物についての感動した記録ですが、そういう対象でも、ある程度は体験する前に魅力的だと感じさせなければ、なかなか人はそこに飛びこんではいかないものです。「下げておいて上げる」が感動の理想なのですが、下げ過ぎてもダメなんですよね。かと言って期待させ過ぎても「期待ハズレ」を引き起こしてしまいます。そこそこの期待をさせながら、本編で圧倒的に良いものを見せる、というのがベストなのでしょう。

 

私は感動していたいですし、触れたものをしっかり味わいたいと思っているので、なるべく「予備知識」は仕入れないようにしています。簡単に言えば「ネタバレ」を避けています。結論を知っていても感動できたりしますが、なるべくなら「期待しない」状態で体験したいものです。「意外に良かった」と思いたいのです。

 

体験する前に「どうせ大したことない」くらいに思っていると、その効果は大きいかもしれません。「さてこれから感動しようかな」などと期待するとダメなのです。